読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

批判覚悟で障害者について述べる

 今回は珍しく真面目なお話だから、最初にちょっと注意事項をば

・筆者は、所謂知的障害者やら発達障害者やらの中でも、重度の障害を抱える人間が「嫌い」です。おいそこ、ここだけ見て批判しようとするな。ここだけで批判していいのは何も嫌いになったことがないキチ○印だけだぞ。

・ここでいう「障害者」は、知的障害発達障害を持つ人のことであり、そのほかのものは含みません。また、軽度の障害者と重度の障害者を分けて書いていない場合があります。便宜上ってやつだね。ていうか軽い方は自分も含まれる可能性あるからね。

・障害者の隔離を主張します。

・命の価値を平等に「くそ」だと思ってます。

・障害者全てがこの記事で言われているような存在ではなく、当然程度があります。というか、私が話題に出しているようなのは少数派です。

ちなみにこの記事、私を善人だと思ってた人の意見がくるっと変わる記事だからよろしく。

 

 出身小学校に、特別支援学級があった。4年生まで通った学童には、そこに所属する児童も来ていた。有り体に言ってしまうと、彼らの3分の1は「獣」だった。理性がなく、目のつく気に入らない物を全て破壊しようとしていた。彼らがそれをあえてしていたのか、はたまたどうしようもないものだったのかは私にはわからないし、興味もない。言いたいのは、当時彼らを見たことによって、私の今日にまで至る障害者観が決定したということである。

 中学ごろからすでに、障害者も健常者と一緒だとか、彼らも価値ある命だという意見を理解できなくなっていた。程度にもよるが、意思の疎通も満足にできず、とくには健常者にとって危険にもなりうる彼らの命が、我々と一緒であり、同価値であるとはとても思えなかった。

 高校にして全ての命に大した価値がないと考えるようになった私は、重度の障害者たちは隔離されるべきであるという結論に至った。差別感情からではなく、互いの利益のためにそうすべきと考えたのだ。

 物わかりが悪いのがいるといけないから一応述べておくが、私は彼らに差別感情を抱いているわけではない。例の冷酷なる殺人者は、どうにも差別感情から事件を起こしたように思えるが、私は彼らへのトラウマからこの思想を抱くに至っている。自分の心に正直になって考えてほしいのだが、何を言ってるかわからず、外見もやや違い、下手をすれば暴力まで振るってくる存在が近くにいるとき、あなたはそれを自分と同じ存在であると認識できるだろうか。ほとんど人は、自分とは違う異質なものであると認識するはずである。

 もうやめようではないか、彼らを見世物にするのは。障害者はどうあがいても障害者であり、健常者からは異質なものとして見られ続けるだろう。健常者もまた、障害者のことを障害者としか見れないのである。これは誰にも、どうしようもないのである。異質なものから身を守ろうとする意識が人にある限り、障害者は異質なものとして見られる。相互理解を訴える人もいるが、対話ができるレベルなら可能だろうが、それもできないレベルとなれば不可能である。人間は対話によって相手を理解する。それができない存在をどう理解しようというのだろうか。人語をつかえないペットと飼い主が理解しあえるのは、そこに上下関係が存在しているからに過ぎない。しかし、障害者を鎖でつなぐわけにはいくまい。

 この互いに理解しあえない存在を、無理に同じ世界に押し込めることはないはずである。互いに無関心で、好きになることもないが嫌いになることもない。これでいいではないか。私には、守ると言って外に連れ出し、自己満足にしかならないというのに、健常者の理解を求めると言いながら障害者を見世物とする連中のことが理解できない。彼らのしていることはあまりにも残酷だ。それがいつか実を結び、健常者と障害者が理解しあえるならいくらかの犠牲は仕方ないかもしれない。しかし、それが不可能だとしたら?永遠に理解しあえないとしたら?彼らは一体何のために生贄を差し出し、障害者はなんのために犠牲となっているのだろうか。

 

 自分でもすごいこと言ってるとは思うよ。でも、こういう意見も誰かが言わないといけないとも思うんだよね。博愛主義や理想主義じゃあなにも変わらない。残酷な現実を見て、それを言えるやつって一定数必要じゃないかね。

 次回こそ、また恋愛ネタ書くよー。