俺がために筆を振る

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102年前のクリスマス

 いやあ諸君、お久しぶり。いや私もね、書かなきゃならんなあとは思ってたんだけどね、中々時間がないわけですよ。忙しい身分なのねえ。

 

 1914年8月、後世の人間より近代と現代の転換点とされる、史上最初の総力戦にして世界大戦、「大戦争」または「第1次世界大戦」が勃発する。当時の知識人の多くが早期に終結すると予想したこの戦争は、第1次マルヌ会戦におけるドイツ帝国の敗北と続く海への競争、タンネンベルクにおけるロシア帝国の敗北などにより、長期戦の様相を早々に呈し始め、最終的には1918年の冬まで続くことになる。

 それまでの戦争とは比較にならないほどの死傷者や物資・経済の消耗とともに続けられたこの戦争であったが、実は4年間戦闘がずっと続いていたわけではない。中世や近世のように数年に渡る停戦はなかったものの、1シーズンほど「事実上の」停戦状態が発生することは、西部戦線では度々あった。大規模な損害や物資の消費、塹壕戦と機関銃による戦闘での防御側優位、これらのために協商・同盟共に、「動けない」という状況が発生しやすかったのだ。

 

 1914年12月24日、戦争に初期の志願兵などがうんざりし始めていた頃、まさに奇跡ともいえるような出来事が起こった。「クリスマス休戦」である。これは英軍と独軍の間で様々な形で起こった。

 英軍中尉のCharles Brewaerは、独軍塹壕からきよしこの夜やドイツの愛国歌などが聞こえて来るのを耳にした。彼らはクリスマスを祝っていたのである。これに対し英軍は反撃を図った。反撃といっても、.303britishを敵に向けて撃ったわけではない。独軍が歌っていたのはドイツ語のきよしこの夜であったが、英軍は自分たちの言葉でこれを歌って反撃したのだ。翌朝、両軍は「無人地帯」において武器を手にせず接触を図ったという。

 この他にも、様々な形の停戦が各地で発生している。クリスマスの間、英独軍の将兵は互いに嗜好品やサインを交換したり、サッカーをしたりして過ごしたという。この短い平和の時間は、ほとんどの場合25日の日没と共に終わったが、元旦まで続いた地域もあったという。

 

 公的なクリスマス休戦というものは存在しなかったが、呼びかけは行われていた。1914年9月から22年の1月まで教皇の位にいたベネディクトゥス15世は、平和実現のため仲介者となり戦争を終わらせようとした人物であった。

 この試みは政教分離が確立していた欧州においては、当然ながら成功しなかったのだが、彼の平和努力のおそらく唯一の成功こそ、クリスマス休戦である。彼はクリスマスは武器を置くように交戦諸国に呼びかけていたが、各国政府からは無視されてしまった。しかし上述の通り、少なくとも英独軍の間では、教皇の言葉を知っていたかどうかはともかく、ベネディクトゥス15世の望んだ停戦が実現していたのだ。

 

 西部戦線にいた協商軍は、英軍のほかに仏軍と白軍(ベルギー)がいたわけであるが、彼らと独軍の間に停戦は発生したのか。どうやら、そうではなかったようである。両国にとってドイツは侵略者であり、戦闘と掠奪によって国が荒れ果てていたことを考えれば、これは不思議ではない。独軍塹壕においてクリスマスパーティーが行われていたのは同じかもしれないが、おそらく交流はなかったであろう。救援に来た存在(しかも、元はそこまでドイツと仲が悪いわけではない)であるブリテンが相手であったからこそ、この停戦は発生したのだ。

 また、この休戦が以後18年まで恒例行事として行われたかというと、そんなことはなく、英独両軍の指導部はこのような非公式の停戦を今後認めない旨を厳命し、許可なく持ち場を離れた場合は銃殺も止む無しとしている。1915年、16年、17年、このような停戦が起こることはなく、1918年まで「動けない」がための事実上の停戦はあったものの、両軍が交流することはなかったという。

 

 クリスマスもう終わってるけど、まあ一応ね。このクリスマス休戦を経験した人間はたぶんそんな生き残ってないと思うよ。生き残っていたとしてもたぶん負傷して後方に送られた人間だよ。なんか、悲しいね。