俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

考える

 やあ諸君ひさしぶり。人間やはり余裕ってもんがないとこういうのは書けないね。まあいまも余裕があるかっつうとそんなことはないんだけども。

 

 私のお気に入りの実況者というか、ゆっくり実況者というか、まあそんなことをしている人にグルッペン・フューラーという人がいる。今日この人のインタビュー記事を読んだのだが、相変わらずその教養の高さで私を驚かせてくれる。また、イデオロギーの喪失や哲学の模索について触れ、実に興味深い話をしていた。

 現代は、必ずしもそう言えるとも思ないが、あまり考えて生きる時代でないように思う。といっても、万人みんなが考えて生きていた時代があったかと言われれば、なんとなく人に世間に言われたことだけやって、都合悪い時だけ急に考え出すなんてふうに生きてきた人間なんてものは、いつの時代にも圧倒的多数だったと思うのだが。しかしそれにしても、現代人は考えていないように思う。

 大学というところは、かつて学びの場と探求の場であった。今もそうであると思いたいところであるが、就職専門学校化した今日の大学にそれを求めても失望するだけだろう。いくらか昔の大学というものは、ほとんど何かを学びたい人しか来なかったし、大学に入らないと就職できない世の中でもなかった。学費の問題もあったから「とりあえず大学に」なんて考えで入学する時代でもなかったのだ。

 金持ちというのはそれなりの教育を受けていることが多い。教育により思考力が発達することで、自分で考えるようになる。自分で考えるようになると自分の思想を持つようになる。こうした人間と、金はないが経験や苦学から自分の思想を持ったという人間が昔の大学では多数派だったのではなかろうか。こういう連中は世間の中では少数派だが、世間の多数派は大学に入りにくい世の中であったため、必然的に少数派が多数派へと変わったのではなかろうか。

 思想はぶつかる。共存している思想ももちろんあるが、時に思想は他の思想を根本から否定するからだ。思想は正義である。人間は異なった多数の正義を簡単に認められるようにはできていない。故に正義と正義のぶつかり合いがおこる。この衝突は戦争という形で発現することもあるが、往々にして議論という平和的にして好ましい形で現れる。思想を持つ者の巣穴だったかつての大学で議論が盛んだったのはこういうわけだろう。

 しかし戦後、国と国民は高度経済成長期を経験し豊かになった。多くの中産階級が大学に子供を入れることができるようになり、

「ねえ、大学どこだった?」

「あたし○○大」

「まじ!?頭いいじゃん!」

なんて会話もめずらしくなくなった。大学に行っているのだからと、企業も大卒の人間を多く採用するようになり、いつの間にか大学卒業は就職の必需品のように言われるようになり、余計に大学に行く人間が増えた。

 しかしこれは、大学の質の低下を招いたように見える。私は上記の「大卒は就職の必需品」をうまく利用して儲けた(その結果学生運動でえらいことになった)大学に籍を置いているが、どうにも昔のように、思想を持つ奴、つまり自分で考える奴が多数派であるようには思えない。史学科なんて変わり者しか来ないように思える学科でさえ、ただ歴史の授業の点が良かったから程度で来ている奴が多数派なようだ。なんとも悲しい話である。

 人間と他の動物で決定的に違うのは思考のレベルだ。その思考が失われているように思う。思考できる人間の聖地であった大学も、もはや失われた。なんとなく生きる。これほど文明人らしくないものがあるだろうか。考えもせず、ただただ生きること、ただただ行動することは、数千数万年前の野蛮な時代から進化していないと言えるのではないだろうか。その途中にあった知の時代からの退化といえるのではないだろうか。

 ふとした瞬間に、「なぜこうするのか」「なぜこれをするorせねばならないのか」と考えてほしい。そして自分なりの結論をだしてほしい。そしてできれば、その結論に沿った行動をしてほしい。行動は難しいかもしれないが、思考ならばみなできるはずなのだ。より多くの人間が思考し、あらゆることが考えられるようになれば、世の中はより面白くなるはずである。

 

 あと10分で家でなきゃならんが、我慢できなかったから書いてみた。時間もバッテリーもないからあとがきはなし。

年の最後に

 今年1番の出来事はおととい見た夢なあそび人さんだよ。まじでくそだなおい。

 

 2016年、思えば大分色々なことがあったものである。政治・芸能界・スポーツ界・ビジネス界・犯罪・・・ありとあらゆることが起こり、私なぞはここが歴史の転換点になるのではないかとすら考えている。

 世間様もそうだが、個人的にもこの1年は平穏な都市とは言えなかった。大学受験、大学入学、初めてのアルバイト、サークル入会、初のアルバイト挫折、数年ぶりのブログ、初の大学の試験、2度目のアルバイト、数年ぶりの芝居、2度目のアルバイトの苦悩etc...ありとあらゆることが目まぐるしく起きては収まっていったため、1年が過ぎるのがあっという間だった。

 人との関係に悩んだことも、自身の体や心の弱さに悩んだこともあった。それでもなんとかかんとか年を越すことができたのは、偏に支えてくださった家族、親類、友人、先輩方のおかげである。非常にありがたいことだ。

 今年は結局彼女もできず、周りの友人たちが青春しているのを眺めていることに終始したが、来年こそは私も青春できればと思っている。といっても、こんな人からおっさんだ爺だ言われている人間に振り向いてくれる奴がいるとは考え難いが・・・まあそのへんはジョークと人当たりの良さでなんとかしようと思っている。

 都市も終わるからなんか書かなきゃいけねえやと思ってこうしてノーパソを起動させたが、特に書くこともないためここらで終わりにしようと思う。もしかしたらこの記事が初の人ばかりかもしれないし、そもそもこんなん更新されるたびに見てるやつがいるのかもわからんが、いずれにしろ、

 

 今年1年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。読者諸君に、良い年がきますように。

 

 

102年前のクリスマス

 いやあ諸君、お久しぶり。いや私もね、書かなきゃならんなあとは思ってたんだけどね、中々時間がないわけですよ。忙しい身分なのねえ。

 

 1914年8月、後世の人間より近代と現代の転換点とされる、史上最初の総力戦にして世界大戦、「大戦争」または「第1次世界大戦」が勃発する。当時の知識人の多くが早期に終結すると予想したこの戦争は、第1次マルヌ会戦におけるドイツ帝国の敗北と続く海への競争、タンネンベルクにおけるロシア帝国の敗北などにより、長期戦の様相を早々に呈し始め、最終的には1918年の冬まで続くことになる。

 それまでの戦争とは比較にならないほどの死傷者や物資・経済の消耗とともに続けられたこの戦争であったが、実は4年間戦闘がずっと続いていたわけではない。中世や近世のように数年に渡る停戦はなかったものの、1シーズンほど「事実上の」停戦状態が発生することは、西部戦線では度々あった。大規模な損害や物資の消費、塹壕戦と機関銃による戦闘での防御側優位、これらのために協商・同盟共に、「動けない」という状況が発生しやすかったのだ。

 

 1914年12月24日、戦争に初期の志願兵などがうんざりし始めていた頃、まさに奇跡ともいえるような出来事が起こった。「クリスマス休戦」である。これは英軍と独軍の間で様々な形で起こった。

 英軍中尉のCharles Brewaerは、独軍塹壕からきよしこの夜やドイツの愛国歌などが聞こえて来るのを耳にした。彼らはクリスマスを祝っていたのである。これに対し英軍は反撃を図った。反撃といっても、.303britishを敵に向けて撃ったわけではない。独軍が歌っていたのはドイツ語のきよしこの夜であったが、英軍は自分たちの言葉でこれを歌って反撃したのだ。翌朝、両軍は「無人地帯」において武器を手にせず接触を図ったという。

 この他にも、様々な形の停戦が各地で発生している。クリスマスの間、英独軍の将兵は互いに嗜好品やサインを交換したり、サッカーをしたりして過ごしたという。この短い平和の時間は、ほとんどの場合25日の日没と共に終わったが、元旦まで続いた地域もあったという。

 

 公的なクリスマス休戦というものは存在しなかったが、呼びかけは行われていた。1914年9月から22年の1月まで教皇の位にいたベネディクトゥス15世は、平和実現のため仲介者となり戦争を終わらせようとした人物であった。

 この試みは政教分離が確立していた欧州においては、当然ながら成功しなかったのだが、彼の平和努力のおそらく唯一の成功こそ、クリスマス休戦である。彼はクリスマスは武器を置くように交戦諸国に呼びかけていたが、各国政府からは無視されてしまった。しかし上述の通り、少なくとも英独軍の間では、教皇の言葉を知っていたかどうかはともかく、ベネディクトゥス15世の望んだ停戦が実現していたのだ。

 

 西部戦線にいた協商軍は、英軍のほかに仏軍と白軍(ベルギー)がいたわけであるが、彼らと独軍の間に停戦は発生したのか。どうやら、そうではなかったようである。両国にとってドイツは侵略者であり、戦闘と掠奪によって国が荒れ果てていたことを考えれば、これは不思議ではない。独軍塹壕においてクリスマスパーティーが行われていたのは同じかもしれないが、おそらく交流はなかったであろう。救援に来た存在(しかも、元はそこまでドイツと仲が悪いわけではない)であるブリテンが相手であったからこそ、この停戦は発生したのだ。

 また、この休戦が以後18年まで恒例行事として行われたかというと、そんなことはなく、英独両軍の指導部はこのような非公式の停戦を今後認めない旨を厳命し、許可なく持ち場を離れた場合は銃殺も止む無しとしている。1915年、16年、17年、このような停戦が起こることはなく、1918年まで「動けない」がための事実上の停戦はあったものの、両軍が交流することはなかったという。

 

 クリスマスもう終わってるけど、まあ一応ね。このクリスマス休戦を経験した人間はたぶんそんな生き残ってないと思うよ。生き残っていたとしてもたぶん負傷して後方に送られた人間だよ。なんか、悲しいね。

 

honestyあるいは無駄な追求

 やあ諸君、1月も経ったからもうほとぼりもさめただろうってんで、また記事を書いてるあそび人さんだよ。今回は政治やら歴史やら思想やらじゃなくて、個人的な話に近いよ。

 

 炎上なんかどうでもよくなるような荒波が、あのあとやってきた。それはすでに過ぎ去り、今は落ち着いているが、後に残した被害はなお私や友人を蝕んでいるように思う。そしてまた、私は別の荒波の気配を複数方面より感じている。

 昨日、ビリー・ジョエルの「honesty」を聞いた。元々夜中にセンチメンタルになることの多い私は、ついに昨日涙した。彼の声にはそういう力がある。


Billy Joel - Honesty (Audio)


Billy Joel - Honesty (Live) Subtitulos Español

 

「誠実さとはなんだろうか」正確には違う言葉であったが、そんなことを私は考えていたように思う。いや、おそらく今も考えている。周りが悩み苦しむなかで、私はなにをするべきだろうか。その問いの先に出た答えは、自身のエゴではないのか。「pretty face」あるいは「pretty lies」ではないのか。

Honesty is such a lonely word

Everyone is so untrue

 なんと悲しい詞だろうか。日本人にこの歌が人気なのは、我々がやたら誠実を叫び求める民族だからかもしれない。誠実を第一としながらも、我々は本当の誠実に辿り着いていない。あるいは、辿り着くことができない。それでもそれを求めずにはいられないのだ。

 求めているのは、他人への誠実と自身への誠実の両方なのだろう。どちらかだけを求めている人はいない。もしそんな気がしても、それは片方が強くて、もう片方が目立たないだけなのだ。私は、他者への誠実に悩みながら、それにどこかで違和感を感じていた。その違和感の正体がわかった時、思わず涙したのである。その涙がどういう涙なのか、その涙が適切なものであったのかは、12時間経ったか経たないかの今ではまだわからない。

 誠実ほど虚しく、難解なものであるというのに、普段から求められるものも珍しい。記事を書いてそれを再認識したが、既に鬱になりかけている。

 

 これについて、私がなんか言っていい立場なのかはわからんけどね。

まあ最後になにか言うことがあるとすれば、みんなビリー・ジョエル聞けよってことくらいかな。

 

 

 

炎上について

 こんばんは、ライトノベル批判したらブログが炎上したあそび人だよ。いやあ史学やってるからわかってるつもりではあったけど、やっぱり大衆ってこわいね。

 

 炎上を狙っているわけでは決してないが、どうにも考えていることが他人と違うこと多いため、所謂世間様の常識とは外れる内容の記事を書いてしまうことがある。別にそれを直そうとかは考えてはいない。というよりも、そういう異端な考えを発端としてもっと議論が深まればいいのではないかと思っている。

 しかしまあそれにしたって驚いたのがつい昨日の件であり、現在も進行している件、ラノベ批判についてである。いや、電波上に情報を流すという行為に関してあまりにも無神経にして無責任であったことは認めるが、「あーそろそろなんか書かないとなあ」程度の心持で書きなぐったものがここまで反響を呼ぶとは思わなかった。以前書いた障害者批判のほうが受けが悪いだろうと思っていたが、一方であちらには何の反応もなかったのも、こういった事態を想定できなかった要因だろう。

 

 問題のライトノベルに関する件の記事は、私の中ではどうでもいい部類に入る記事である。それよりも障害者に関することや、子供に関することのほうが重要で、議論されるべきだと思っている。しかしいざ書いてみると、こんなどうでもいいものばかり注目されてもっと重要性の高い問題が無視される。

 もちろん、どうでもいいのだから批判なぞするなとは言わない。むしろ、私のひりだした糞がきっかけでライトノベルの定義やらなんやらが活発に論じられるようになるのは好ましく思う(もちろんそこまで考えて書いたわけではない。あれは昔人間が気に入らないものを否定するのに、無理矢理理論をもってこようとして火傷しただけである)。ただ、ライトノベルについての記事だけ注目されてそればかり議論され、もっと見てほしい・考えてほしい話題が無視されるのはなんだか複雑である。

 せっかくこのブログに来たのなら、あの記事だけみて帰らないでほしい。批判をするならライトノベルの記事にだけ石を投げ込んでおさらばするのではなく、他の記事にも石なりなんなり投げ込んでいってほしいと思っている。

 

 なに、まとめに載ったの?ほんとに図らずして(いい事か悪いことかはともかく)知名度上がったな。だってブログ開いたときアクセス数4桁とか想像できなかったもん。

 はあー・・・ああいうのには食いつくんだなあ・・・いやまあ炎上してまで数を稼ごうとは思わんから、数目的で批判的な内容書くことはないけども。かといって批判的で捻くれた記事書くのをやめる気はないけども。

 

 

 

 

ライトノベルへの反発

 なんかもう童貞のまま死んでもいいんじゃないかと考えるようになってきている、遊び人さんだよ。いやね、やっぱり生活に余裕がなくなるとこういうのは書けなくなってくるね。今後も、長期休暇に入らなきゃこんな感じだと思うよ。


 小説家になろうというサイトにおいて、去年あたりから活動をしていなくもない私であるが、ランキングを見るたびに忌々しく思う。


異世界

ハーレム

勇者

とかとかとか


 別にランカーになろうなど考えていない。そもそも、長編を1つも上げていないからお話にもならないのだが。しかしまあよくもここまで逃避と甘えの作品ばかり上位に来るものだと思う。使い古されたネタである異世界への移動も、ここまで使い古されてなおも人気があるとなればもはや呆れさせられる。現実において平凡なものは、どこにいこうと平凡であるというのに。

 気持ちはわからなくもない。平凡で冴えない男がいて、彼が現実から離れたことによって大活躍する。出会う女を助けて、それらをことごとく落としていく。その男に自分を重ねて、「自分も・・・」などと思ってしまうのは理解する。しかし、実際にはそんなことはまずありえない。

 人間の想像の範疇を超えた世界や、あまりにも捻くれた世界のことは何とも言えないが、少なくとも小説に登場するような人間が想像しうる真っ当な世界において大成するものは、現実でもそれなりに活躍できると私は考える。なぜなら、その世界の多くの原則は現実のものと変わりないからだ。ファンタジーやら異世界やらも、表面の装飾が違うだけであり、内容物は我々が生きている世界と変わらない。ならば、現実で活躍できなかったものが、如何にして異世界で大成するというのか。

 

 このような非現実が受ける背景には、読者側の需要が大きく影響しているように思う。先述した自分との重ね合わせや、キャラクターへの萌えなどがそれであろう。しかしそれで読者を獲得することは、読者を釣っていることにはならないだろうか。ライトノベルの中で名作とされるものの中には、完成度ではなくこれらによって読者を増やしただけのものが数多く潜んでいるように思う。

 そもそも、ライトノベルに名作はあるのだろうか。もし上が正しいならば、単に読者数が多かっただけで、出来は必ずしもよくないものが名作と呼ばれていることになる。だが名作であるか否かは販売数ではなく出来栄えで判断されてしかるべきだ。この判断が困難であるために、我々はとりあえず売れた作品を名作としているが、需要のあるジャンルと萌え絵で客を釣ったライトノベルにおける名作は、これを大いに利用したまがい物ではないだろうか。もし名作があるとするならば、それはそのジャンルを開拓した先駆的な作品のみではなかろうか。

 

 これまで散々個人的なライトノベルへの反発を書きなぐってきたわけであるが、別にライトノベルが消えてなくなれとか、こんなものは規制されてしかるべきだとは言わない。ただ、ライトノベルが独自のジャンルとして存在・発展するのは構わないが、文学へ侵入してくるは違うと思っている。私としては、ライトノベルだけを読むのではなく、しっかりとした文章、しっかりとした物語も読んでほしい。こちらをメインにしろとは言わないが、ライトノベルだけを読んで読書をしている気にはならないでほしい。これだけは訴えておきたい。

 

 なお、こんだけいっておきながら、純文学とかは書いてない模様。強いて言うならエンターテイメント小説かな。まあ短編しか書いてないんだけどね。

 しかしまあなろうにはラノベしか受けないみたいな風潮どうにかならないものか。私の作品の数が稼げないじゃないか。

 

恋愛と性交渉

 荒野の7人のリメイクが、来年の冬に日本でも公開されると聞き、これはワンチャン開拓時代の古いリボルバー(M1851とかM1860とか)をどっかがガスガン化するんじゃないかと、淡い期待を抱いているあそび人さんだよ。

 

 不用意なセックスに否定的な身である私は、恋愛と性交渉をセットとして考えなくてもよいのではないかと思っている。時には、この2つはある程度切り離されて考えられるべきではないかと思うことすらある。

 別に婚前交渉に否定的なわけではない。男女7つにして席を同せずという気もない。しかし、どうにも私はセックスに関しては、キリスト教的倫理に洗脳されきっているためか、先述のように否定的なわけではないが、肯定的にもなれないのである。

 

 セックスには快楽が伴う。だからこそ人は、セックスを求める。自身に経験がないためなんとも言えないが、どうも恋人同士のそれはほの甘いものであるらしい。だがもし、それがほの甘くなくなったら。惰性と快楽への欲求だけで体を重ねているとしたら。そういうカップルは案外いるらしいのだが、それはもはや愛し合っていると、カップルであるといえるのであろうか。

 相手への恋愛感情よりも快楽への欲求が優先されたとき、その関係はもはやカップルといえるのだろうか。世にいう「セックスフレンド」ではないだろうか。恋愛関係とは、お互いのへの愛があり、もし欲求があるとすれば、それは相手の存在への欲求であるべきではないだろうか。私にはセックスが、愛するひとへの想いを破壊する麻薬のように思えてならない。

 互いの存在を求めることが恋愛ではないだろうか。肉体ではなく、相手という存在を。そこに肉体の接触は必ずしも必要なのだろうか。理性を持って生まれ、長く本能との戦いを続けている我々は人間にとって、性欲への敗北は本能への敗北ではないだろうか。また、多くの欲望を振り払ってでもなお誰かを愛することが、我々人間にできるというのならば、それこそが真の愛ではないだろうか。だとするならば、セックスはその真の愛への道を阻害する障害ではないだろうか。ただ1つ確実に言えることは、これはもう童貞にはなんとも言い難いということだけである。

 

 別にセックスに否定的なわけじゃないのよ。というよりも本能に否定的なのよ。いやまあどうがんばっても勝てる相手じゃなくて、常にどこかに存在し、奇襲をかけてくる存在だってのには気づいてるんだけど、それでもやはり理性をもって生まれたのなら抗いたいのよね。