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俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

恋愛と性交渉

 荒野の7人のリメイクが、来年の冬に日本でも公開されると聞き、これはワンチャン開拓時代の古いリボルバー(M1851とかM1860とか)をどっかがガスガン化するんじゃないかと、淡い期待を抱いているあそび人さんだよ。

 

 不用意なセックスに否定的な身である私は、恋愛と性交渉をセットとして考えなくてもよいのではないかと思っている。時には、この2つはある程度切り離されて考えられるべきではないかと思うことすらある。

 別に婚前交渉に否定的なわけではない。男女7つにして席を同せずという気もない。しかし、どうにも私はセックスに関しては、キリスト教的倫理に洗脳されきっているためか、先述のように否定的なわけではないが、肯定的にもなれないのである。

 

 セックスには快楽が伴う。だからこそ人は、セックスを求める。自身に経験がないためなんとも言えないが、どうも恋人同士のそれはほの甘いものであるらしい。だがもし、それがほの甘くなくなったら。惰性と快楽への欲求だけで体を重ねているとしたら。そういうカップルは案外いるらしいのだが、それはもはや愛し合っていると、カップルであるといえるのであろうか。

 相手への恋愛感情よりも快楽への欲求が優先されたとき、その関係はもはやカップルといえるのだろうか。世にいう「セックスフレンド」ではないだろうか。恋愛関係とは、お互いのへの愛があり、もし欲求があるとすれば、それは相手の存在への欲求であるべきではないだろうか。私にはセックスが、愛するひとへの想いを破壊する麻薬のように思えてならない。

 互いの存在を求めることが恋愛ではないだろうか。肉体ではなく、相手という存在を。そこに肉体の接触は必ずしも必要なのだろうか。理性を持って生まれ、長く本能との戦いを続けている我々は人間にとって、性欲への敗北は本能への敗北ではないだろうか。また、多くの欲望を振り払ってでもなお誰かを愛することが、我々人間にできるというのならば、それこそが真の愛ではないだろうか。だとするならば、セックスはその真の愛への道を阻害する障害ではないだろうか。ただ1つ確実に言えることは、これはもう童貞にはなんとも言い難いということだけである。

 

 別にセックスに否定的なわけじゃないのよ。というよりも本能に否定的なのよ。いやまあどうがんばっても勝てる相手じゃなくて、常にどこかに存在し、奇襲をかけてくる存在だってのには気づいてるんだけど、それでもやはり理性をもって生まれたのなら抗いたいのよね。