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俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

個人的子供論

 家にいると、つまり家族以外の誰かに見られる心配のない環境にいると、午後6時あたりから段々とメンヘラ化していくようになったあそび人さんだよ。それでも相変わらず、一晩寝るとなんとかなってるから不思議だね。

 

 できちゃった婚授かり婚という風に言うようになってから、どれほど経っただろうか。言われ始めた当時は特になにも感じなかったが、結婚できる歳となり、結婚や子を成すということが、少なくとも以前よりは身近になった今になって考えると、物はいいようだと思う。

 私は、子供は愛の結晶や、神仏からの贈り物である前に、1人の人間として見るべきだと思う。これから長くつらいことのほうが多いであろう人生を、たまの楽しみを糧に歩んでいく1人の人間だと。そしてその人生は、生み出した者の性質や境遇に大きく左右されるのである。それ次第で幸せになることも、不幸のどん底に叩き落されることにもなるのだ。

 極論を言ってしまうと、私は貧乏人は子供を成すべきではないと考えている。金がないというだけで、子供の将来に制限がかかるからだ。望んでもいない命を与え、考えようによっては生き地獄であるこの世にに放りだしておきながら、愛してるなどと言うならば、子の将来には可能な限りの可能性を持たせるべきである。しかし貧乏では大学にはいかせることができない。だというのに子供が学者になりたいといったら、親はなにができようか。良い学問には金がかかるとは福沢諭吉も言っている。ならば親になるものは、子の可能性を広げるために、金を持っていなければならない。

 ノリで子供を産む人がいる。単純に子供が好きだからと言って産む人がいる。旦那や想い人との性交渉の結果として産む人がいる。しかしこの人々は、子の将来を考えたことがあるのだろうか。彼ら彼女らの私欲のために生み出される子供たちに、自分たちが出来得るすべてをするという覚悟があるのだろうか。近年の児童虐待の例を見ると、どうしてもそうは思えない。それが如何に罪深く残酷なことであるかを、文明社会に生きる我々は今一度見直すべきではなかろうか。

 子は親を選べない。親を選べないことは、人生を選べないこととほぼ同義であろう。子の性質を決定する遺伝子や家庭環境は、全て親から提供される。そしてそれらによって、彼らは人生の決断をしていく。ならば、親から受け継ぐものが歪んでいたり、不足していたのならば、子の人生もまた歪み、不足するのではなかろうか。幸いにして我が祖国は、少子化には悩んでいるものの、一家の労働力として子供を産まなければならないという近代以前のようなことはあまりない。子を産むか産まないかを選択できる恵まれた状況にある。ならば、子供を産むことがどういうことなのかを、今一度考えてみるべきではなかろうか。

 

 虐待して殺された子供や、歪んだ子供の話を聞くたびに、親には産まないという選択肢があったのにと思ってしまう。子供は1人の人間だ。これから母親になる人、父親になる人には、「人間を作る」意味をよく考えてほしい。そう思う今日この頃。