俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

越後国湯沢

 アルバイトから帰ってきて、少しお疲れのあそび人さんですよっと。いやねえ、ほんとにこれ自動投稿みたいのないのかね。一番数稼げる時間に家にいないことが多いから不便なのよね。スマホで操作するのはいまだに慣れないし。

 

 平安期から湯の湧く土地として知られ、川端康成の「雪国」にて日本中にその名を知られることとなった越後湯沢。つい先日まで、サークルの先輩友人方とかの地に旅行へ行っていた。田に囲まれた小さな宿とその周辺でのことを、すこしここに記しておきたい。

 

 旅行は20日の新宿よりはじまった。早朝の雨が落ち着きを見せ、少しの移動ならば傘を要さない程度の降りとなっていた頃、魔境新宿で迷うかもしれないと言った友人を救出しに行く。私が寒風の次に苦手とするひどい湿気に曝されながら待つこと数分、吐きそうになっていたところでようやく友人がきた。それを案内するような距離でもない場所まで案内していくと、すでに先輩方の多くは到着していた。こういう時最も早く到着しているべき1年はといえば、まあずいぶんとゆっくりとした到着であった。これを見ているならば、以後気を付けるように。魔境新宿は言い訳にはならない。不安ならば駅構内図くらい前日に見ておくものである。

 全員揃い、バスに乗り込んでいざ湯沢へと走りだしたのがおおよそ9時。バスの中では各々会話が弾んでいた。私は前半は同期と話し(そして同期の見たくなかった側面をみた)、後半は先輩方と話した。なお、ここでも1年やらかす。5分前行動を心がけるように。

 宿に到着したのは13時頃であったように思う。宿に到着した後は長くいることはなく、荷物を置いたらすぐに移動となった。ここで、私がくだらないコスプレのためについにやらかす。大ブーメランである。

 いそいそと宿を出たのちに向かったのは、土地の体育館のような場所であった。ここにて、いくらか前より1年で計画していた企画であるドロケイを発動したわけであるが、正直gdgdでうまく運営できていなかった感がある。はたして先輩方は楽しめたのであろうか。ドロケイの後は2年の先輩方の企画されたドッジボールが行われた。もうすでにへとへとである私に比べ、他の方々の元気なこと元気なこと。私は最年少なのだがこはいかに。(ただ体力が不足しているだけである)

 宿に戻った後はしばしの自由時間。この時間の間に風呂に入る。結局わからなかったから何とも言えないのだが、あの宿の湯は温泉だったのだろうか。温泉は間違いなく入っているから最悪そうでなくてもいいのだが、すこし気になるところである。あということがあるとするならば、ある友人の何某がそこそこ大きかったことだろうか。

 湯につかってさっぱりした後は食事である。これがまたうまい。特に私は、冬瓜の汁物が気に入った。でかいリゾートホテルのお決まりの食事ではなく、ああいった宿でこそ食べれる家庭的味が、この上なくうれしい夕餉であった。なお、トラップカード「生野菜」が発動したため、私のみ野菜は少し不足した。

 夕食の後はお楽しみ(?)の花火である。これも一年が企画した。まあドロケイよりはうまくいったであろう。初夜は4年の先輩の提案もあり、手持ちだけの花火で各々楽しんでいただくことにした。私の目にはそれなりに楽しんでいただけたように映ったが、果たしていかがであったろうか。

 花火の後こそ、お楽しみ(確定)の飲み会である。用意された酒の中には、私の生まれるより前のスペインワインまであって驚いた。そしてこのワインがまたいい。これまで赤はやや苦手であったのだが、この一杯でだいぶ印象が変わった。なお、調子に乗って飲み過ぎてセクハラ大魔神と化した模様。その犠牲となった約1名の同期に、この場をもって改めて謝罪いたします。

 同期のほとんどが床に入ったのちも、私は史学科の同志を史学談義に巻き込んで、しばらくWW2のif説を話していた。お決まりの、枢軸国勝利ルートについてである。改めて英仏海峡の戦いの歴史的意義の大きさに気づかされた。巻き込んで友人にこの場をもって謝罪すると共に、前述の点に気づかせてくれたことに心から感謝します。ちなみに、寝たのは2時過ぎである。

 翌日は9時より朝食。これまたこの手の宿の朝に出されるとありがたい類のもの。その後少し時間を空けてから、送迎バスに乗り込みそば打ち体験へ。随分昔に一度だけやったことがあり、あまりうまくできなかったように覚えているため、少し不安であったが、まあそれなりにはうまくいったのではなかろうか。ちなみに、昼食はこのそばと天ぷらであった。

 帰ってきた後、パパッと準備して今度は近くの川へ。この川は私の父親も仕事でよく来る場所(というのも、父は武道の師範であるため、所謂合宿に引率することが多いのである)で、この記事を書く少し前に聞いたところでは、辺りではそれなりに知られた所であるらしい。ここにて3年の先輩方企画の水風船合戦が行われた。水大好き人間である私は大いにはしゃいだが、特に活躍の場もなく早々にヒットされて死体となった模様。合戦の後は30分ほど自由に行動。ある先輩の上裸の眩しいこと眩しいこと。みんな(筆者含)がそれに水をかけまくったため、水も滴るいい男になっていた。

 川の後はそのまま歩いて近場の温泉へ。水大好き人間は風呂も大好きであるからご満悦である。なお、この記事を書いている最中に「不憫パパ」のあだ名をつけられた私は、ここにて同期に220円差し出した模様。いやまあ私の自由意志でやったことだけども。この3日間のことに関わらず、諸々の事情を鑑みるに、ほんとにしっくりくるあだ名だと思います、はい。

 宿に戻った後は旅行中2度目にして最後の夕餉。BBQである。焼きそばや肉を焼く先輩方の姿と汗が光って見えた。このときに、先輩の1人が旅行から離脱した。その夜が幾分静かになることを思うと、寂しくなった。・・・いやまああんまり静かにはならなかったけども。ただ、いたらもっと騒がしくなっていたのは必定である。

 さて、最後の夜が満を持してやってきた。その始まりは、再び1年企画の花火にて幕を開けた。今度は設置系を主体としたど派手な演出・・・をしたかったのだが、色々あって満足のいくものではなかった。来年はチャッカマンをもう1つ買おうと思う。

 花火の後は各々自由行動に。ここにて予想外のイベントが発生。1年による唐突な、あまりにも唐突なツイキャス配信の開始である。明らかに視聴者を振るい落とす勢いで行われていたが、果たして大丈夫だったのだろうか。その他にも、私以外の同期や先輩方は大乱闘かなにかで盛り上がっていたようだが、私は疲れていたため部屋で本を読んでいてた。決して知的な奴アピールではない。

 「寝落ちが幸せな寝方なのだから限界まで起きているべし」と主張する同期を放置して眠りに落ち、それから覚めたのが8時半。着替えの後最後の朝食をとる。続いて大急ぎで荷物をまとめ宿を出る支度を整えると、荷物は一度置き、宿の送迎バスで今度は越後湯沢駅へ。ここでは自由行動を言い渡され、同期2人と駅周辺へ内部をぶらついた。まずは和菓子屋に入り、水饅頭を味わう。映画「山本五十六」で、役所広司がうまそうに食べるシーンを見てからずっと口にしてみたかった甘味を、ようやく楽しむことができた。上越新幹線や関越道を使えば、長岡はすぐそこである。ところで、旅行を振り返ってみると、おそらくこの時間が、旅行中唯一だれかとまったりと過ごしたときである。

 甘味の後は昼食である。駅構内のイタリアンレストランで談笑しながらの食事であったが、これもまた落ち着いた時間である。演劇サークルらしく芝居のことなども話した。そこにて、改めて公演が近づきつつあることを意識しもした。

 食事を終え、土産を買ったらいよいよ旅行も終わりである。宿に別れを告げ、バスに乗り込み、関越道で東京へ戻る。翌日のバイト、つまり先ほどすましてきた仕事を思えば、できれば便利ながらもいそいそとした東京に戻ることなく、このまま夢のような時間がゆっくりと続けばと思ったが、使い古された表現をするなら「夢は覚めるもの」であるからそうもいかない。時期に18時になろうというところでついた新宿の街は、都会好きの私の目だというのに、ひどく不快なものに見えた。

 

 あの時間を、もう1度。

 願わくば永遠にあの宿で面白おかしく過ごしたかったが、残念ながら東京に帰ってきてしまいましたよっと。しかも室長から渡された予定表見たら、なんか26日の稽古出れなくなってるし。確か出勤不可としたはずなんだけどなあ・・・

 いやあ楽しい時間は本当にあっという間。いやな時間はだらだらと続く。あっという間でいいから、楽しいことだけの人生を過ごしたい。もはや人生の苦など味わいたくないものである。30で、いや25で死んでもいいから、楽しいだけの人生を過ごしたい。途中に苦しいことなぞなくても、これまでの苦を思えばもはや十分楽しく過ごすことができるだろう。そして悔いなぞないままに、恥じらいもためらいもない笑顔でくたばりたい。この上なく楽しかったが、同時にこう思うようになった3日間だった。