俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

フランス革命の考察(考察とは言っていない)

 カラオケでイケボだイケボだと女の子からおだてられ、ちょっと調子乗ってるあそび人さんだよ。もし仮に僕がイケボの持ち主だとしたら、その声を活かして落語でもやってみたいですね、はい。あと、今日の記事は、大学に提出したレポートからのコピペを多々含むよ。

 

 友人に、宝塚を好きな女性がいる。『姥勝手』(田辺聖子著)の歌子さんがいうところの、「宝塚大好き少女」というやつである。彼女とカラオケに行くと十中八九、いや100%宝塚の歌を聞けるのだが、公演を見に行ったことがないどころか、大好き少女にあったのもこれがはじめてという私には、宝塚と言えば「翼の決戦」と「ベル薔薇」くらいしか思いつかない。とはいえ、思いつきはするものだから、それに着想を得てこの記事を書くわけである。「翼の決戦」にして日本近代史勢を喜ばしてもよいが、近代は前回取り上げたため、今回は近世に戻る。つまり「ベル薔薇」、フランス革命について書くことにする。当初は89年から95年くらいまで書こうと思っていたが、思ったよりめんどくさかったため、ベル薔薇が89年で終わっているのに倣うことにし、10月事件(またヴェルサイユ行進)までについて書くこととする。

 

歴史においては一般的に、フランス革命ナポレオン戦争を区切りとして、近世と近代を区別する。それは、この2つがそれまでの常識を大きく変えるほどの変化であったからだ。フランス革命の理念は、ブリュメール18日あたりで放棄され、その後100年近くフランスの政権からは忘れられるが、その影響力の大きさは、今日の国家にまで及んでいることからよくわかるだろう。(以下、コピペ多数)

 18世紀末フランスの財政事情は、実に厳しい状況にあった。ルイ14世ルイ15世の2人の治世下に行われた度重なる戦争は、国庫に計り知れない打撃を与えていた。そして、国庫に、ひいてはフランス「王国」にとどめの一撃を加えたのは、ルイ16世が行った、アメリカ独立戦争への支援であった。当時の具体的な財政状況を知ることはほぼ不可能であるが、1788年に国王に提出された予算書によれば、収入5億300万リーヴルに対し、支出は6億2900万リーヴル。つまり、1億2600万リーヴルもの赤字であったという。なお、同時期に経済危機の悪化が起きているため、実際にはより多くの赤字が発生していたとも考えられている。

 この状況下において、カロンヌやブリエンヌら、王に登用された財務総監は、第1、第2身分を対象とする新税の導入を中心とした改革に着手したが、いずれも王権の弱体化を狙う貴族たちによって阻まれてしまっていた。結果的に、王が貴族たちに屈する形で、全国三部会(新税導入の是非問う議会)が開催されることとなった。この三部会に対し、下層民も並々ならぬ関心を寄せていたようである。参加できないにも関わらず、連日多くの人が三部会の進行を見守るためにヴェルサイユに押しかけ、手に入れた情報を町々のカフェや広場で話題にした。また、情報が伝わりにくい地方都市においても、第3身分(当時のフランスの身分は第1、第2、第3身分の3つに分けられており、第1は聖職者、第2は貴族、第3がその多数で構成された)の三部会議員が情報を送り続けていたため、それを聞きにきた人々で町の広場は埋まったという。

 しかし、この三部会がフランスの問題を解決することはなかった。議員定数や議決方法をめぐって、第1、第2身分と第3身分が対立したのである。議決方法をめぐる議論は平行線をたどり、本題にもたどり着かず、議会は膠着状態に陥った。これに愛想をつかしたシエイエスをはじめとする人々は、王の承認なしに「国民議会」の結成を宣言。これにより議場から追い出された国民議会メンバーよって、有名な球戯場の誓い(テニスコートの誓いとも)がされる。遅々として進まない三部会よりも、この英国型立憲制を目指す議会に期待したルイ16世は、これを渋々ながら承認した。そして、憲法制定国民議会が再編され、フランスは近代的な方法で再建を目指すこととなる。

 しかし、宮廷はこれを歓迎しなかった。宮廷貴族は王に圧力をかけ、軍をヴェルサイユとパリ周辺に集結させ、さらに国民に人気のあった財務総監ネッケルを罷免した。議会を牽制したのである。

 議会はこれによって追い詰められ、有効な手を打つことができないでいた。それを救ったのは、これから革命の要所要所で大きな役割を果たすことになる、民衆であった。軍によるパリ包囲に最も大きく反応したのは、議会ではなくパリ市民であった。彼らは王の兵がパリに突撃したときにおこる掠奪を恐れたのだ。市民は王に屈するのではなく、抵抗することでこの恫喝に答える。所謂、バスティーユ襲撃を起こしたのだ。1789年7月12日、パレ・ロワイヤルに集結した民衆は示威行進をはじめた。これに町の衛兵が加わり、市内各地で王の兵士と小競り合いが起こる。宮廷が手をこまねいている間に、議会も動き出した。ブルジョワジー(こういうのは、議会内の革命的〔この定義は時期によって変わるが〕な議員の大部分はブルジョワ階層に属す第3身分か法曹関係者であったため)は市民の無秩序な行動を組織化し、自らの抵抗力とせんとした。13日には参加者も増え、それによって発生した武器の不足を解決するため、14日に市内の廃兵院(アンヴァリッド。ナポレオンの墓で有名)に押しかけ、マスケット銃を手に入れた。それでもまだ足りなかったのか、市民はまた別の場所に目をつける。それが、バスティーユであった。

 今日日本においては、バスティーユの襲撃は囚人開放が目的であったといわれることが多い。しかし、それは全くの間違いである。バスティーユは牢獄としてはほとんど機能としておらず、武器庫としての役目がメインであった。7月14日にいた囚人は7人ほどで、政治犯に至っては1人もいなかった(余談だが、数日前まではあのマルキ・ド・サドが収監されていたという)。市民の目的は、砦内部に蓄えられている火薬の入手と、自分たちに向けられた大砲の撤去、精神的なものを含めるなら、専制の象徴の攻略もあったかもしれない。砦に市民が到着した知り、騒ぎを起こさずに事態を収拾しようとした市は代表を砦内部に送る。要求は受け入れられ、砦の指揮官は代表たちを昼食に誘った。ことは当初、穏便に運んでいたのである。しかし、中々出てこない代表に痺れを切らした1人の市民(書籍によっては2人)が砦に潜入し、城門をあけてしまう。開門を見るや市民は砦に向かって我先へと走り出した。押し寄せた民衆に驚いた兵士がこれに向け発砲し、それに驚いた民衆は応戦し、混乱の中で結果的に戦闘が勃発する。そして、最終的には数で勝る民衆が砦を占拠したのである。バスティーユ襲撃とは、こうした隅発的要因が重なった結果だったのである。余談であるが、ベル薔薇のオスカルのモデルは、この事件においては市民側について戦った軍人だか国民衛兵だかの指揮官であるそうだ。

 この時期、農村部でも「大恐怖」と呼ばれる騒ぎが起こっているが、めんどくさいので割愛する。だってもう3000字近くになってるんだもん。もう文章書くの疲れちゃったよ。

 バスティーユの後、封建制の廃止、人権宣言の採択と、新体制の構築は議会の中では進んでいた。しかし、この当時の議会はあくまで立憲王政を目指しており、これらには王の批准が必要であったのだが、ルイ16世はあくまで抵抗をつづけた(拒否権氏と呼ばれていたそうである)。さらに10月には、再びヴェルサイユに軍隊を集結させ、議会への恫喝を行っている。議会はまたも窮地に立たされたわけであるが、思わぬ加勢によって危機を脱することとなる。その加勢とは、7月と同じく民衆であった。

 依然として解決されない食糧問題に対し、パリ市民は憤りを感じていた。さらに、近衛兵が王族の前で、革命を象徴する三色の帽章を踏みにじり、それを王妃が喜んだという話を聞き及び、これを宮廷の革命に対する挑戦であると民衆は受け取っていた。そして10月5日の朝、堪忍袋の緒が切れたパリ市内の婦人達は、市役所前に集結して食糧配給を要求したのである。熱狂する民衆の中から、マイヤールというバスティーユ襲撃の際にも活躍した活動家が、ヴェルサイユに陳情に行くことを提案した。これに賛同した民衆達は、途中で国民衛兵と合流したりしながら、雨の中を6時間行進し、ヴェルサイユの立憲議会議場に押しかけた。マイヤールは議場に入り、食糧の欠乏について苦情を述べ、さらに軍の退去を要求した。これに対し議会は、食糧問題の解決についてのみ答えた。

このとき国王は、趣味の狩りに出かけていたが、騒動について聞くとすぐに宮殿に戻った。夕方、マイヤールに先立ち議場を出た婦人たちが宮殿に押しかけ、パリ市役所に対するものと同じ要求した。王はパリへの食糧配給を約束し、その証書にサインをしさえもした。そして、マイヤールや婦人たちもパリへ帰りはじめ、国民衛兵も引き揚げ、さらに夜に開かれた議会においては、ついに議会で採択された諸法令が王によって無条件で受理された。多くの者が、事態は収束したものと考えていた。しかし翌日、民衆の一部がヴェルサイユ宮殿の中庭に侵入し、近衛兵と乱闘騒ぎを起こしたあげく、宮殿の内部にまで入り込んだ。さらに、混乱を鎮めるためとして、国民衛兵が近衛兵を追いやって、宮殿を占拠までしてしまった。国王一家は事態を治めるために民衆の前に姿を現したが、彼らは国王に対し、宮廷のパリへの移動を要求した。熱狂した群衆を止めることはもはや不可能であり、王はこの要求に屈した。この後、宮廷はパリのテュイルリー宮殿へと移動し、続いて議会も同地へ移動する。こうして、パリは再び政経双方の中心地となった。

 パリへと強引に連れ戻され、テュイルリー宮に押し込めらた王は、これにて革命においては敗者となってしまった。そしてそれにより、議会が本格的に政治を動かしていくことになる。当時の人々の多くは、これにて革命が終わったものと思っていた。これから立憲体制のもとに国が再建されていくと考えていたのだ。しかしこの大革命は、4年後に始まるテルール(所謂山岳派あるいはジャコバン派独裁)を挟んで、さらに10年程続くことになる。そしてその間に、89年時点では想像しようもなかったほどの血が流されることになるのである。

 

 くぅ~疲(ry まーた日が変わってしまった。字数も4300に達そうとしている(ここで達した)。まあしかし、投票率が下がっているここ数年、再び選挙という物を、ひいては民主主義を考える必要があるため、ぜひフランス革命についてはご自身でも調べてみてほしい。いま我々が当たり前のように持っている権利が、どれほどの屍の上に獲得された物なのかがわかれば、少しはありがたみも増すだろう。それでは、Au revoir.