俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

「叱る」と「怒る」

 あと1時間ほどで、再来週にはやめてしまうバイトに行かねばならない。その前に、バイトで学んだことを軽くまとめておこうと思う。

 

 1月ほどのバイトで学んだことは、「叱る」ことの難しさである。お前叱られる側だろと思われる方が多いだろうが、これは、反面教師から学んだとでもいおうか。

 私のバイトの上司は、おそらく普通の、どこにでもいる良い人なのだろうが、いかんせん人の上に立つには向いていないのではないかという人だった。そして、私がそのように感じた理由が、この「叱る」ことによる。

 バイトを始めて2週間ほど経った頃、私があるミスをした。自分を擁護するのならば、店舗側の教育不足が原因ではあるのだが、なんにせよ、ミスを犯したのは他でもない自分であるから、私はその上司に謝罪した。そして、上司は言った。

 

「いや、すいませんじゃなくて」

 

 この聞いた相手に戸惑いと不快感を与える言葉に、私は絶句した。確かに、原因や今後の対策について述べることを求められている者が、すいませんを繰り返すばかりであったとき、上のように言うのは道理だろう。だが、呼び出され、到着し、自分の気付かなかったミスについて知らされ、それに対し、まずは謝罪をすべきだと考えたがために謝罪したというのに、

 

「いや、すいませんじゃないて」

 

と言われたのである。

 では、あの時私はなんと言うべきだったのだろうか。ミスがあったことを知らされたのち、いきなり原因と今後の対策を述べるべきだったのだろうか。このような文章にすると対して違和感がないように感じるかもしれないが、場面を想像していただければ、むしろ違和感しかないことに気づくだろう。また、あの時上司は、原因やら対策やらを述べるよう私に指示していたわけではない。であるから、私は謝罪したわけだが、これは果たして間違った行いだろうか。当事者である私が言うから、どうしても自己弁護にのようになってしまうが、私には何か誤りがあったようには思えない。

 さて、この後は、頭を下げ続け、原因と対策を自分なりに述べたのちに解放されたのだが、先述のように、私はこの一件で「叱る」ことの難しさを感じた。

 なぜ上司は「すいませんじゃないくて」などと言ったのか。この原因は正確にはわからないが、おそらく、私の父の予想(愚痴ったときに話してくれたもの)が正しいのではないかと思う。父の予想は、そういうことがもはや癖になっているというものだ。確かに、理性的に考えれば、上司の叱り方がおかしいのはすぐにわかる。しかしそれでもそういうのは、その言葉にこれといった意味はなく、単純に叱る対象を委縮させるのに効果的であることが皮膚感覚的にわかり、故に何度も使っているうちにくせになったと考えれば、私は納得がいくが、いかがだろうか。

 そもそもあの上司の行為は「叱る」だったのだろうか。理性的な行いではなく、感情的な「怒る」ではなかったのだろうか。この2つの辞書的な意味は同じであるようだが、私は似て非なるものだと思っている。それは、「叱る」が理性的に声を荒げるのに対し、「怒る」は感情的に声を荒げるからだ。そして、職場においては公私混同を極力避けるべきであろうから、基本的には「怒る」という行為は許されないだろう。あくまでも上司は、部下を叱責する際には「叱ら」なければならない。そこに感情が加われば、それはもはや仕事ではない。しかし私の上司は、これは感覚的かつ主観的な意見であるし、説明も難しいからおそらく納得していただけないだろうが、語調や態度などから、どうにも「怒っ」ていたように思える。部下の失敗の後始末のために頭を下げなければいけないのは、決して気分のいいものではないだろうから気持ちはわかるが、私が部下であることも、失敗を犯した当人であることも忘れて客観的意見を述べるなら、それが上役の務めというものだから、腹を立てるのは道理ではない。さらに言うなら、教育不行届が原因ならば言い逃れの余地はないのではないだろうか。

 さて、ここまで上司と「怒る」を批判してきたわけであるが、そろそろ理想論ばかりでなく現実もみておきたい。人間の行動はほぼ常に感情に支配されている。本当の意味で無私になれる人などいない。であるから、「叱る」ときにも大なり小なり感情が入ってしまい、いくらかは必然的に「怒る」になってしまう。このいくらかをどれほどにするかが、人の上に立つ人間の腕の見せ所、いや、人としての器量の見せ所ではないかと思う。これを適切にできる人間はやはり尊敬されているものだ。ただ、私個人はある程度できてさえいれば問題ないと思うし、難しいことではあるが、一般的な日本人なら努力さえすればその程度に到達できるとも思うから、余計に気張ることもないと思う。

 散々説教くさく述べてきたから、人によっては上の意見を不快に思っている人もいるかもしれない。というわけで、最後に私の意見の多々ある弱点の中でも、最も痛いところを自白しておきたい。実に単純でわかりやすいその弱点とは、私がまだ社会のしの字を知ったか知らないかくらいの青二才(大学ピカピカの)1年生であるという点だ。つまり、

 

「お前に社会の何がわかる」

 

と言われてしまえばそれまでなのである。というわけで、この弱点の指摘も踏まえ、もし反論などがあるなら、遠慮なくコメントなどで指摘していただきたい。そちらもすっきりするだろうし、私も社会をうかがい知れる。所謂win-winというやつだ。