俺がために筆を振る

現役おっさんくさい保守的な大学生の執筆する供給しかねえブログ不定期更新中

個人的子供論

 家にいると、つまり家族以外の誰かに見られる心配のない環境にいると、午後6時あたりから段々とメンヘラ化していくようになったあそび人さんだよ。それでも相変わらず、一晩寝るとなんとかなってるから不思議だね。

 

 できちゃった婚授かり婚という風に言うようになってから、どれほど経っただろうか。言われ始めた当時は特になにも感じなかったが、結婚できる歳となり、結婚や子を成すということが、少なくとも以前よりは身近になった今になって考えると、物はいいようだと思う。

 私は、子供は愛の結晶や、神仏からの贈り物である前に、1人の人間として見るべきだと思う。これから長くつらいことのほうが多いであろう人生を、たまの楽しみを糧に歩んでいく1人の人間だと。そしてその人生は、生み出した者の性質や境遇に大きく左右されるのである。それ次第で幸せになることも、不幸のどん底に叩き落されることにもなるのだ。

 極論を言ってしまうと、私は貧乏人は子供を成すべきではないと考えている。金がないというだけで、子供の将来に制限がかかるからだ。望んでもいない命を与え、考えようによっては生き地獄であるこの世にに放りだしておきながら、愛してるなどと言うならば、子の将来には可能な限りの可能性を持たせるべきである。しかし貧乏では大学にはいかせることができない。だというのに子供が学者になりたいといったら、親はなにができようか。良い学問には金がかかるとは福沢諭吉も言っている。ならば親になるものは、子の可能性を広げるために、金を持っていなければならない。

 ノリで子供を産む人がいる。単純に子供が好きだからと言って産む人がいる。旦那や想い人との性交渉の結果として産む人がいる。しかしこの人々は、子の将来を考えたことがあるのだろうか。彼ら彼女らの私欲のために生み出される子供たちに、自分たちが出来得るすべてをするという覚悟があるのだろうか。近年の児童虐待の例を見ると、どうしてもそうは思えない。それが如何に罪深く残酷なことであるかを、文明社会に生きる我々は今一度見直すべきではなかろうか。

 子は親を選べない。親を選べないことは、人生を選べないこととほぼ同義であろう。子の性質を決定する遺伝子や家庭環境は、全て親から提供される。そしてそれらによって、彼らは人生の決断をしていく。ならば、親から受け継ぐものが歪んでいたり、不足していたのならば、子の人生もまた歪み、不足するのではなかろうか。幸いにして我が祖国は、少子化には悩んでいるものの、一家の労働力として子供を産まなければならないという近代以前のようなことはあまりない。子を産むか産まないかを選択できる恵まれた状況にある。ならば、子供を産むことがどういうことなのかを、今一度考えてみるべきではなかろうか。

 

 虐待して殺された子供や、歪んだ子供の話を聞くたびに、親には産まないという選択肢があったのにと思ってしまう。子供は1人の人間だ。これから母親になる人、父親になる人には、「人間を作る」意味をよく考えてほしい。そう思う今日この頃。

越後国湯沢

 アルバイトから帰ってきて、少しお疲れのあそび人さんですよっと。いやねえ、ほんとにこれ自動投稿みたいのないのかね。一番数稼げる時間に家にいないことが多いから不便なのよね。スマホで操作するのはいまだに慣れないし。

 

 平安期から湯の湧く土地として知られ、川端康成の「雪国」にて日本中にその名を知られることとなった越後湯沢。つい先日まで、サークルの先輩友人方とかの地に旅行へ行っていた。田に囲まれた小さな宿とその周辺でのことを、すこしここに記しておきたい。

 

 旅行は20日の新宿よりはじまった。早朝の雨が落ち着きを見せ、少しの移動ならば傘を要さない程度の降りとなっていた頃、魔境新宿で迷うかもしれないと言った友人を救出しに行く。私が寒風の次に苦手とするひどい湿気に曝されながら待つこと数分、吐きそうになっていたところでようやく友人がきた。それを案内するような距離でもない場所まで案内していくと、すでに先輩方の多くは到着していた。こういう時最も早く到着しているべき1年はといえば、まあずいぶんとゆっくりとした到着であった。これを見ているならば、以後気を付けるように。魔境新宿は言い訳にはならない。不安ならば駅構内図くらい前日に見ておくものである。

 全員揃い、バスに乗り込んでいざ湯沢へと走りだしたのがおおよそ9時。バスの中では各々会話が弾んでいた。私は前半は同期と話し(そして同期の見たくなかった側面をみた)、後半は先輩方と話した。なお、ここでも1年やらかす。5分前行動を心がけるように。

 宿に到着したのは13時頃であったように思う。宿に到着した後は長くいることはなく、荷物を置いたらすぐに移動となった。ここで、私がくだらないコスプレのためについにやらかす。大ブーメランである。

 いそいそと宿を出たのちに向かったのは、土地の体育館のような場所であった。ここにて、いくらか前より1年で計画していた企画であるドロケイを発動したわけであるが、正直gdgdでうまく運営できていなかった感がある。はたして先輩方は楽しめたのであろうか。ドロケイの後は2年の先輩方の企画されたドッジボールが行われた。もうすでにへとへとである私に比べ、他の方々の元気なこと元気なこと。私は最年少なのだがこはいかに。(ただ体力が不足しているだけである)

 宿に戻った後はしばしの自由時間。この時間の間に風呂に入る。結局わからなかったから何とも言えないのだが、あの宿の湯は温泉だったのだろうか。温泉は間違いなく入っているから最悪そうでなくてもいいのだが、すこし気になるところである。あということがあるとするならば、ある友人の何某がそこそこ大きかったことだろうか。

 湯につかってさっぱりした後は食事である。これがまたうまい。特に私は、冬瓜の汁物が気に入った。でかいリゾートホテルのお決まりの食事ではなく、ああいった宿でこそ食べれる家庭的味が、この上なくうれしい夕餉であった。なお、トラップカード「生野菜」が発動したため、私のみ野菜は少し不足した。

 夕食の後はお楽しみ(?)の花火である。これも一年が企画した。まあドロケイよりはうまくいったであろう。初夜は4年の先輩の提案もあり、手持ちだけの花火で各々楽しんでいただくことにした。私の目にはそれなりに楽しんでいただけたように映ったが、果たしていかがであったろうか。

 花火の後こそ、お楽しみ(確定)の飲み会である。用意された酒の中には、私の生まれるより前のスペインワインまであって驚いた。そしてこのワインがまたいい。これまで赤はやや苦手であったのだが、この一杯でだいぶ印象が変わった。なお、調子に乗って飲み過ぎてセクハラ大魔神と化した模様。その犠牲となった約1名の同期に、この場をもって改めて謝罪いたします。

 同期のほとんどが床に入ったのちも、私は史学科の同志を史学談義に巻き込んで、しばらくWW2のif説を話していた。お決まりの、枢軸国勝利ルートについてである。改めて英仏海峡の戦いの歴史的意義の大きさに気づかされた。巻き込んで友人にこの場をもって謝罪すると共に、前述の点に気づかせてくれたことに心から感謝します。ちなみに、寝たのは2時過ぎである。

 翌日は9時より朝食。これまたこの手の宿の朝に出されるとありがたい類のもの。その後少し時間を空けてから、送迎バスに乗り込みそば打ち体験へ。随分昔に一度だけやったことがあり、あまりうまくできなかったように覚えているため、少し不安であったが、まあそれなりにはうまくいったのではなかろうか。ちなみに、昼食はこのそばと天ぷらであった。

 帰ってきた後、パパッと準備して今度は近くの川へ。この川は私の父親も仕事でよく来る場所(というのも、父は武道の師範であるため、所謂合宿に引率することが多いのである)で、この記事を書く少し前に聞いたところでは、辺りではそれなりに知られた所であるらしい。ここにて3年の先輩方企画の水風船合戦が行われた。水大好き人間である私は大いにはしゃいだが、特に活躍の場もなく早々にヒットされて死体となった模様。合戦の後は30分ほど自由に行動。ある先輩の上裸の眩しいこと眩しいこと。みんな(筆者含)がそれに水をかけまくったため、水も滴るいい男になっていた。

 川の後はそのまま歩いて近場の温泉へ。水大好き人間は風呂も大好きであるからご満悦である。なお、この記事を書いている最中に「不憫パパ」のあだ名をつけられた私は、ここにて同期に220円差し出した模様。いやまあ私の自由意志でやったことだけども。この3日間のことに関わらず、諸々の事情を鑑みるに、ほんとにしっくりくるあだ名だと思います、はい。

 宿に戻った後は旅行中2度目にして最後の夕餉。BBQである。焼きそばや肉を焼く先輩方の姿と汗が光って見えた。このときに、先輩の1人が旅行から離脱した。その夜が幾分静かになることを思うと、寂しくなった。・・・いやまああんまり静かにはならなかったけども。ただ、いたらもっと騒がしくなっていたのは必定である。

 さて、最後の夜が満を持してやってきた。その始まりは、再び1年企画の花火にて幕を開けた。今度は設置系を主体としたど派手な演出・・・をしたかったのだが、色々あって満足のいくものではなかった。来年はチャッカマンをもう1つ買おうと思う。

 花火の後は各々自由行動に。ここにて予想外のイベントが発生。1年による唐突な、あまりにも唐突なツイキャス配信の開始である。明らかに視聴者を振るい落とす勢いで行われていたが、果たして大丈夫だったのだろうか。その他にも、私以外の同期や先輩方は大乱闘かなにかで盛り上がっていたようだが、私は疲れていたため部屋で本を読んでいてた。決して知的な奴アピールではない。

 「寝落ちが幸せな寝方なのだから限界まで起きているべし」と主張する同期を放置して眠りに落ち、それから覚めたのが8時半。着替えの後最後の朝食をとる。続いて大急ぎで荷物をまとめ宿を出る支度を整えると、荷物は一度置き、宿の送迎バスで今度は越後湯沢駅へ。ここでは自由行動を言い渡され、同期2人と駅周辺へ内部をぶらついた。まずは和菓子屋に入り、水饅頭を味わう。映画「山本五十六」で、役所広司がうまそうに食べるシーンを見てからずっと口にしてみたかった甘味を、ようやく楽しむことができた。上越新幹線や関越道を使えば、長岡はすぐそこである。ところで、旅行を振り返ってみると、おそらくこの時間が、旅行中唯一だれかとまったりと過ごしたときである。

 甘味の後は昼食である。駅構内のイタリアンレストランで談笑しながらの食事であったが、これもまた落ち着いた時間である。演劇サークルらしく芝居のことなども話した。そこにて、改めて公演が近づきつつあることを意識しもした。

 食事を終え、土産を買ったらいよいよ旅行も終わりである。宿に別れを告げ、バスに乗り込み、関越道で東京へ戻る。翌日のバイト、つまり先ほどすましてきた仕事を思えば、できれば便利ながらもいそいそとした東京に戻ることなく、このまま夢のような時間がゆっくりと続けばと思ったが、使い古された表現をするなら「夢は覚めるもの」であるからそうもいかない。時期に18時になろうというところでついた新宿の街は、都会好きの私の目だというのに、ひどく不快なものに見えた。

 

 あの時間を、もう1度。

 願わくば永遠にあの宿で面白おかしく過ごしたかったが、残念ながら東京に帰ってきてしまいましたよっと。しかも室長から渡された予定表見たら、なんか26日の稽古出れなくなってるし。確か出勤不可としたはずなんだけどなあ・・・

 いやあ楽しい時間は本当にあっという間。いやな時間はだらだらと続く。あっという間でいいから、楽しいことだけの人生を過ごしたい。もはや人生の苦など味わいたくないものである。30で、いや25で死んでもいいから、楽しいだけの人生を過ごしたい。途中に苦しいことなぞなくても、これまでの苦を思えばもはや十分楽しく過ごすことができるだろう。そして悔いなぞないままに、恥じらいもためらいもない笑顔でくたばりたい。この上なく楽しかったが、同時にこう思うようになった3日間だった。

 

 

素面の告白

 ついこの間まで風邪ひいてて、今ものどの調子が悪いあそび人さんだよ。痰が凄いのどに絡むし、吐き出したらなんか黄色いんだよね。そして苦いんだよね。

 

 つい先日より、再びアルバイトを始めた。地元の塾で講師をすることになったが、早々に「悪い職場ではないがややブラック」である雰囲気を教室から感じ取っている。素直に事務職にするのが正解だったかもしれない。

 私がバイトをするのは、単純に金のためだけではない。非常勤講師という仕事であるから、経験を求めていると思われるかもしれないが、それはこのバイトに限定した話である。いかなるバイトを始めるときにも共通して持っている目的がある。体面だ。

 自分のありのままを曝け出すことを推奨しながら、こういったことをいうのは矛盾していると思われるかもしれない。しかし、矛盾せずに生きることなど可能だろうか。また、これに関しては、完全に矛盾しているとは言えないように思う。体面のために仕事をするということは、ようは見栄を張っているわけであるが、「見栄っ張りである」というのもまた、私の「まま」であるからだ。これを押し隠していたら矛盾の程度が幾分か上がるようにも思えるが、こうして言ってしまえば大した矛盾にはならない。

 さて、体面のために仕事をするとはどういうことか。人間の人間に対する評価基準には、往々にして世間をどれだけ知っているかが含まれているように思う。そしてその判断には、実際の知識・情報量よりも、年齢、職業、経験などが要素として用いられるように思う。学生にして仕事をし、その対価として給金をもっているというのは、社会に接する経験をもったということである。その経験を提示することで、他者は世間を知っていると「錯覚する」ことがあるのではなかろうか。

 アルバイトを「していること」がそこまで大きく意味を持たなかったとしても、おそらく、「していないこと」はそれなりに大きな意味を持つだろう。これには個々人の事情があり、また義務でもないのだからするかしないかは本人次第であると思うのだが、他人の事情などお構いなしに人を判断する人間は、どうもこのアルバイトを「していない状態」をあまり良くないものとして見ているように思う。時には、こういった状態にいる人間を軽んじている馬鹿者まで見かける。

 見栄っ張りである私は、人から侮られることを最大の侮辱の1つとすら考えている。相手の意識が変わるのが最も望ましい解決法であるが、それは望むだけ無駄であろう。であるから、結局私が変わるしかない。諸々の好条件で、自分を無理やり納得させて働いている風がないといえば、うそになる。それでも、侮辱を受けるよりはマシである。

 この記事がもし職場に見つかれば、首を切られてしまうかもしれない。ないとは思うが、その時は事務職にでも移るつもりである。いずれにせよ、これがわたしの「まま」である。

 

 本当はもっと掘り下げようと思ってたんだけど、やめよう、今はまだその時ではない。

 次回は・・・いつになるかわかんねえや。まあまた色恋関係になるとは思うけんど。

 

昔語りその2

 サバゲめちゃくちゃ楽しかったけど、いろいろやらかしもしたから、書くのをためらってるあそび人さんだよ。ウィンチェスターお釈迦もなるし、なんか楽しいようなそんなことないような、どっちにも振り切れてた日だったよ。

 

 まだアメーバでブログを書いていて、中二病丸出しで神戸清人などと名乗っていた頃、確か高校受験から中学を卒業したあとくらいまでの間、ある1人の女性に恋をしていた。といっても、その人が本当に女だったのか聞かれると断言はできない。所謂、回線越しの恋だったからだ。

 まだ青かった私は、遠距離も、回線越しの恋もあり得ると思っていた。今も大概であるが、当時はそれ以上にロマンチストだったのだ。ただ、この恋に関しては、最初から勝算はなかったし、私は成就させる気すらなかった。彼女にはすでに相手がいたのである。

 出会ったのはいつだったか、いかなる経緯だったかは忘れてしまった。ただ、出会ってからそう経たずに意気投合したのは覚えている。そして、そう経たずに彼女を見る目が変わったことも。しかし先述したように、彼女にはすでに、学校に相手がいたようである。昔からお節介おじさんだった私は、破局仕掛けていた彼女とそのお相手の仲に関し、純粋な親切心から無い知恵絞って色々と助言していた。

 だが、結局2人は別れた。私と彼女が出会ってから、それなりに経ったころだったと思う。信じられないかもしれないが、好機到来と思うことはなかったように思う。これは褒められるべき心からではなく、戦意喪失していたからというのが、理由として適切だろう。いま以上に頻繁にカマ言葉で話していたことや、悪い時期に近づいたことにより、もはや異性としては見られていないと私は思っていた。

 これは出会ってからすぐに気づいたことだが、彼女は所謂「ビッチ」だった。誰かと肉体関係をもっていたかどうかは知らないが、例えるなら、いいビッチと悪いビッチを比較したあの有名な画像の、左側である。そんな彼女が、誰かと交際関係にない状態を長く続けることができるはずもなく、1月も経たないうちに新しい相手を見つけてきた。しかしその相手とは、回線越しだからこそできたことか、あるいはもともとそこらへんに拘らない今の私のような人だったのか、女性だったのである。つまり百合カップルとなったわけだ。

 以降、私が恋した女を「A」、その相手を「B」とする。AがBと付き合いはじめたのちも、私とAとの関係は変わらなかった。相も変わらずくだらない話などして盛り上がっていたのだが、それがBにはお気に召さなかったらしい。Bは世にいうメンヘラというやつだったから、独占欲が強かった。異性である私が、自分の女と親しくしているのが許せなかったのだろう。しかし、それがわかったのはいくらか経ってからだった。

 ある日のこと、突然私のもとに、こんなようなメッセージが届いた。

「Aを頼む」

差出人はBだった。察しは決して悪くないと自負している私は、全てを悟った。私とAがやり取りをしていた、アメーバの「なう」をのぞいてみると、案の定AとBが別れる別れないの話をしていた。B曰く、Aの自分への想いは冷めており、私(つまりこの記事の筆者)に恋しているとのことだった。そうだったらどれだけうれしかったことか。だが、実際は先述の通りである。頑ななBと、狼狽するAの間で、私はパイプ役として両者と話した。うろたえ嘆くばかりのAを落ち着かせ、完全に私を敵視しているBを説得し、2・3時間かけてようやく2人の仲の修復に成功した。我ながら、おかしなことをやったものである。

 しかしこういった騒動は、私がBとも親しくなったことや、Aの浮気な性格などから、この後何度か起こることになる。そのたびに私がパイプとなったことは言うまでもないだろう。こんな関係でありながらも、まだ人の色恋というものを今以上に知らなかった私は、これが長く続くものであると考えていた。

 悲劇は突然にやってくる。何度目かのAの浮気な性格とBの独占欲の衝突が起きたとき、例のごとく私は両者の交渉を行った。しかしそこで、いつもと違うことが起きてしまった。Bから、浮気のお誘いがきたのである。Bに同情していた私は、好意ではなく哀れみから、この誘いに乗った。しかし、近距離での浮気はすぐばれるものである。これはAの知るところとなり、彼女は我々2人から離れた。私はBとの関係に関して幾分か悩んだが、彼女が別の男性と親しくなりつつあることを察すると、徐々に離れていった。こうして、我々3人はばらばらとなり、昼ドラのごときロマンスに終幕の時が訪れたわけである。

 その後も、以前の昔語りに出てきたうちの片方にぼんやりとした想いを寄せるはじめるまで、Aは私の中で枷として残り続けた。精神が不安定であった時期もあったりしたが、今にして思えば、彼女が原因だったのかもしれない。

 今でもたまに、彼女に似た、若々しいがどこか年相応に思えない風のある女を見たりすると、彼女のことを思い出す。だが、そこにもう未練はない。昔の思い出が頭の中を通り抜けていき、それをきっかけとして、危なっかしい女だった彼女がどうしているのか、少し心配になるのである。

 

 まじであの娘大丈夫なのかしら。援助交際とかしててもまったく不思議じゃないからこわい。いやだよ、風俗行ったら再開とか。いやまあ互いに顔の半分くらいしかしらんけども。

 

2016年8月道中記 その3

 寝る前に書いてないの思い出して、大急ぎで書いてるあそび人さんだよ。ようやく慣れたPCで書けるから、少し楽だね。ちなみに、たぶん投稿されてるのは翌日のお昼とかだよ。

 

 3日目の行程は大したことはない。朝食、朝風呂を済ませたのち、チェックアウトして宿を出る。米原の宿に泊まっていたが、行き先はすぐ近くの彦根だ。そしてそこに、この旅行の目的地がある。

 現存12天守の1つを持ち、先日の犬山城と同じく天守等を国宝とされている彦根城は、関ヶ原の大戦からさほど経たない1603年に築城がはじまり、22年に完成した。

 彦根といえば、赤備えで有名な井伊直政であるが、直政は1602年に、関ヶ原で島津の兵に負わされた傷が元で亡くなっているため、城は幼少の直政の子に代わり、家老の指揮で建てられている。

 彦根城を訪れた者達を圧倒するのは、その石垣と、天守に到達するまでの長さである。1603年以降の非常に大規模な戦といえば、大阪の陣くらいなものである。その後は天下泰平の世の中がやってくるというのに、彦根城はそんな時代を感じさせないほどに、防御設備に力が入れられている。これは徳川方が、依然として豊臣を警戒していた証であろう。

 城の防御設備と対照的に、風流とくつろぎを重視しているように思えるのが、表御殿である。これは後代になって復元されたものではあるが、様々な史料を参考に、かつての建物を忠実に再現している。大部分は博物館として利用されているが、藩主が生活した区画は、当時の姿を残すために、内装も復元している。落ち着きのある上品な内装に、美しい庭。城主たる藩主のプライベートスペースには、執務の疲れをいやすための工夫が所々に見られる。あの井伊直弼を含む彦根藩主達は、あの場所で一体どんな時を過ごしたのだろうか。

 表御殿の博物館には、中世史マニアと近世文化史マニアを喜ばす品が多数展示されている。南北朝期から江戸期までの鎧兜と刀剣にはじまり、能面や衣装、茶道具、楽器、絵画などを多数揃え、それらの背景にあるものなども丁寧に解説していた。もし彦根城に立ち寄ったなら、城だけで満足せず、ここで赤い鎧をみて帰ってほしい。

 城を見たあとは、城下で土産探しである。読者の大半を占めるであろう人々のために、私は土産を買わなければならない。しかし困ったことに、城下には和菓子くらいしかなかったりする。和菓子で長持ちするのなんて羊羹くらいなものだし、羊羹が分けるのがめんどくさい。方々探してみたが結局見つからず、米原まで戻って、そこで賞味期限に余裕のあるものを購入。自分がお土産受け取れると思っている人はまあそれなりに期待してればいいんじゃなかろうか。

 土産購入の後、15時58分発の東京行きで新横浜へ、そこから列車とバスを乗り継ぎ、19時半ごろに帰宅。2泊3日の近江・美濃・尾張旅行は、これにて終了した。

 

 基本的に私が行きたいところにいき、妹と父親(去年までは母。今年からは体調の都合で不参加)の意見はガン無視。それが我が家の旅行だよ。妹は歴史になんて一切興味ないしね。

 次回は、サバゲのことか、私の個人的な悩みごとについて書くんじゃないかな。

2016年8月道中記その2

 夕食で、酒そんなに強くないことがわかったあそび人さんだよ。ワインとシャンパン一杯ずつで吐くのは弱いのかな?

 

 明治村に行きたかったのだが、見事に定休日にぶつかり入れなかった。変わりとして、さして遠くない場所にあるリトルワールドと犬山城を訪れたため、それについて記述する。

 世界各地の文明の家屋を集めた施設であるリトルワールドは、建物好きの私を喜ばすのに充分であった。東アジアにはじまり、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、西アジアという流れで設置された家屋は、私を童心に帰らせ、年甲斐もなく興奮してしまった。

 特に、バイエルン(ドイツ)、アルザス(フランス)、プーリア(イタリア)の家屋は、欧州好きの私にはたまらないものであった。可能であれば、バイエルンでプレッツェル(とビール)、アルザスでチーズ(とワイン)、プーリアでジェラート(とワイン)を味わいたかったが、時間の都合上上略した。

 現存 12天守のうちの1つである国宝犬山城は、木曽川に面した地に建てられた城である。織田家によって築かれたこの城は、小牧・長久手の戦を呼び起こした戦闘の舞台になっている。あまり大きな天守ではないが、その姿は堂々として、威厳を感じさせた。1つ気になったのは、狭間が見当たらなかったことである。天守には大体狭間があるものだと思っていたが、見つからなかったため少し以外であった。

 そして宿に戻り、酒と南欧料理が身体に及ぼした負担がようやく抜けつつある今、これを書いている。明日は彦根のあたりを歩きたいと思っている。帰ったら、ようやくこの書きづらいスマホ投稿ともおさらばだ。

 

 お酒強くなりたい。切実に。さすがに2杯で吐くのはいかがなものか・・・疲れてたからだと信じたい・・・

酒と親父とピアノと

 さっき、父親とお酒飲んできたあそび人だよ。すっごい感じのいい舞台で飲めたから、詳しく書いちゃうよ。文章が中二じみてるのはアルコールのせいだよ!

 

 夕食後、父親に誘われてミニバーのような場所にともに行った。「大人な」という形容詞を使って表現したくなるようなその場所の雰囲気には、カクテルがよく似合っているように思える。滋賀で活動しているという歌手の歌声と、彼女の弾くピアノの音は、親子を少し感傷的にさせた。

 父親は、いつも私に酒を少しくれるが、グラスのなかの全ては渡さない。そんな父が、初めて私に一杯の酒をよこした。酒の名は「キール」。白ワインにカシス・リキュールを少量加えた酒で、フランスのディジョンにその起源があるらしい。

「白が好きなら、たぶん口に合うだろ」

 父にそう言われ、試しに口に運んでみた。私が初めて口にしたカクテルは、白ワインの味を確かに残しながらも、少し酸味のあるものだった。なるほど、白ワイン好きに勧めるのは正解だ。

 父のウィスキーが半分、私のカクテルが3分の 2程になった頃、突然父は、彼の父親、つまり私の祖父のことを話し出した。

「じいちゃんと酒を飲んだのは、一度きりだった

  祖父は、私が影も形もないころに、この世の人でなくなった。父がいまの職場に勤めだしてから、 2年後だったという。

 父親との「飲み」について語る父は、楽しそうには見えなかったし、現に楽しい話ではなかった。まだ学生だった父の許容量を越えて飲んだがために、嘔吐したのだという。そしてそれがトラウマで、祖父とは飲まなくなったそうだ。

「じいちゃんは、もっと俺と飲みたかったのかもしれないな・・・」

  自身の悴である私にそう語る父には、後悔の感情が見えた。その後悔が、祖父への申し訳なさからくるものなのか、もっと利己的な後悔なのか、あるいは両方なのか、私にはわからなかった。馬鹿で青い私にも理解できたのは、祖父はあまりいい親ではなかったと聞いているが、それでも父にとって、親は親であったということだ。

 ささやかな飲み会の後、宿の大浴場で、私は父の言葉の意味をぼんやりと考えていた。しかし、子を持ったことも、持つつもりもない私には、到底理解できそうになかった。ただひとつ、これからはちょくちょく父と飲むということだけが、私のなかで決定した。

 

 こういう文章を馴れないスマホで打つと火傷する。みんなも、酔ってるとき以外は絶対やるなよ!